最近話題のテレビ番組の一つに、「フリースタイルダンジョン」がある。
「モンスター」と呼ばれる五人のラッパーに挑戦者がフリースタイルラップバトルを挑み、審査員の判定によって勝ち進み、五人全員を倒すと賞金が獲得できるというシステムの番組だ。
オーガナイザーはZEEBRA。それ以外にも般若、漢、、UZI、そしていとうせいこうといった大物ベテラン陣。高校生ラップ選手権出身のT-Pablowなどの若手。
バラエティに富んだメンツがフリースタイルバトルを繰り広げている。
この番組はネットなどで口コミが広がり、先日は3時間を超える特番が放送され大きな反響を呼んだ。
いわゆるDA.YO.NE以降、興味の無い人々によって広められた悪意のある勘違い、「ラッパーって感謝ばっかしてんでしょ?」「チェケラ」といったステレオタイプを払拭し、再びラップが脚光を浴びる契機となったのは間違いない。
そんな中、特番に対する感想の中にこんなものがあった。
ドタマの涙に共感してる人、少年漫画の読みすぎだろ。ラッパーの関係性ばかりを楽しんで、物語を消費することが最悪の形で現れたのは東西抗争だったんじゃないのか?US詳しくないけど。しかも悪いことにドタマ自身がRを意識しすぎてていつまでお前そのこと言ってんだ、と言いたくなる。
— 韻踏み夫 (@rhyminaiueo) 2016年7月3日
証言って資本とかメディアの力で俺たちの文化(ヒップホップ)がねじ曲げられたりするの許さねーぞ!ってメッセージな曲なわけでしょ?それ、藤田マネーとテレ朝の力ありきなフリースタイルダンジョンの場で言われてもなぁ…矛盾してるしなぁ…ってなるでしょ。
— コジプラ (@kozzy_jeff) 2016年7月3日
盛り上がりを見せるフリースタイルダンジョンに対して批判的な視点で指摘を行っている。どちらにも共通しているのはヒップホップの文脈、長い歴史とそのバックグラウンドからの視点だ。
これに対し「盛り上がっているのに水を差すな」という意見があった。なるほど、それもわかる。盛り上がりを見せ、最高潮に達したところで水を差されれば腹も立つだろう。「じゃあ何ならいいんだよ!」と言いたくなる気持ちもわかる。
「見えざる手」的に「全員が好きなようにやればよくなる」って話もあるが、音楽の場合全員の目的が一致しているわけではない。
正直、こういった論争が起こること、それ自体は非常に健全というかあるべき姿ではあると思う。
なぜそう思うか。
僕がロックファン、メタルファンであることは以前のエントリでも書いたが、ロック界やメタル界でこういった論争は起こりにくくなりつつある。
それは、この論争自体が不毛だからなくなった、という見方もある。一方で、それぞれが好きなものを好きなように聞く時代になった結果、対立が生まれなくなった。とする見方。
どちらにしても、争いがなくなったことはいいのだが、大きな潮流は生まれにくくなっている。
門戸を開く
フリースタイルダンジョンは、閉ざされていたヒップホップの門戸を開いた。もっと遡れば、BSで放送されている高校生ラップ選手権、その盛り上がりをさらに拡大した。
アンダーグラウンドで醸成された濃密な世界が日の目を見た。
それは間違いなくヒップホップにとってプラスであるだろう。今の時代一番大事なのはまず「知ってもらうこと」なのだ。なんでも好きなものを選べる時代だからこそ、まず選択肢に載せること、それが重要だ。
問題はその先である。注目を集め、人とメディアを引き寄せた。そこから先どうするのか。上で引用した二つの呟きはそれを見越していると感じた。
一方ではフリースタイルがあまりに重要視されすぎることで、ヒップホップの消費のされ方が歪んでしまうのではないかという危惧。
また一方でフリースタイルダンジョンという、資本の元でショーアップされたフリースタイルに対する批判。
ネット時代の「人気」や「話題」はどうも、偏重しやすい。フリースタイルダンジョンは確かに面白い。しかし、それを快く思わないラッパーだってかなりいるはずだ。
フリースタイルダンジョンに出場したラッパーの音源をどれだけの人が聞いただろうか。そもそも、現在の流れの中でフリースタイルを行わないラッパーは注目を受けないままではないのか。
まず注目されること、これはヒップホップのみならずあらゆる業界が目指していることだ。そうして集めた人々がどうなるのが理想なのか。ただ集めて盛り上がって楽しかった、それでいいのか。
フリースタイルバトルは非常に刹那的なものだ。その場、その瞬間に強烈に燃え上がる。だが、ヒップホップはこれからも恐らく続いていく。フリースタイルはその過程でずっと戦い続けるのか。身を削り、魂を削り続けるのか。
その刹那性に惹かれ、集まった人々はどこまでフリースタイルを求め続けるのか。
俺はその姿に、かつてのプロレスの姿を重ね合わせてみてしまう。
アントニオ猪木が異種格闘技を行い、ジャイアント馬場以降の全日が四天王プロレスへと移行し、FMWが電流爆破を行う。人気の高まりとともによりリアルに、過激に、刹那的なものを目指したプロレス。
00年代に入り、それらはいとも簡単に崩れた。K-1やPRIDEの登場、大物選手の移籍や引退。プロレスは離散した。
そしてプロレス界が目指したのは分かりやすさだった。その極みがハッスルだ。芸人がリングに上がり、プロレスラーがギャグをやりつつ試合を行う。メディアにも出た。注目はされた。普段プロレスを見ない人に大きく門戸を開いた。
だが、何が残ったのか。
ハッスルで集まった人たちはどこへ消えたのか。ハッスルで初めてプロレスを見た人は今もプロレスを見ているのか。
もちろん、ハッスルと比べたらはるかに誠実に、フリースタイルダンジョンは作られているし、演者も然りだ。
ハッスルが頑張ってなかったとか悪だったとか言うつもりは無い。
しかし同様の疑念は消えない。
フリースタイルダンジョンで盛り上がった人々は音源を買うようになるのか、ライブに行くようになるのか。フリースタイルをやらないラッパーはどうなるのか。
フリースタイルダンジョンが終わったら、また前と同じに戻るだけじゃないのか。
一度生まれた盛り上がりは、より拡大して大きなムーブメントになるか、あるいは単なるブームとして別のものに取って代わられるしかない。
ヒップホップはもちろん、大きなムーブメントを目指すだろう。だとすれば、今そのあり方を考えることは一つ重要な視点だと思う。
つまり、「楽しさ」の質を問うこと自体は無駄ではないと思う。
「楽しい」の意味
今楽しんでいること、それ自体は否定しない。しかし、今「何を」楽しんでいるのか。それを自覚する必要はあると思う。
フリースタイルはあくまでラップの一面でしかない。ヒップホップはアートやファッション、そしてラップも含めた総合文化だ。さらにラップもフリースタイルだけではなく、もっと言えば韻を踏むことは至上命題ではない。ポエトリーリーディングという、語るようなラップのスタイルもある。
結局のところ、フリースタイルダンジョンだけが、ヒップホップの中心となり正解となって「楽しまれる」ことで失われていくものもあるとは思う。
「楽しさ」は何よりも優先されるものだ。特に娯楽に関しては。
しかし、その「楽しさ」はあまりに強力であるがゆえ、物事の本質すらも変えてしまうことがある。
アニメの楽しさが作品自体から、それを用いたコミュニケーションへと変化したように。アイドルの楽しさが、購買競争や接触へと比重が移りつつあるように。
「何を」楽しんでいるのかという点が変化しつつある。
しかし「だって楽しいじゃん」という意見に対しては反論しようがないのだ。そこに何を言っても水を差す邪魔者でしかない。
「昔のように楽しめ!こうやって楽しめ!」を押し付けたい老害にはなってはいけない。それは逆に「楽しくない」から。
要は、楽しさの選択肢が増えることなのだろう。最初の例で言えば、ラッパー同士の関係性とそこから生まれるドラマを楽しむ見方。これは、音楽それ自体とは別の視点だ。
関係性、勝敗、そういったものが存在するのは何もラップだけではない。
しかし、ラップというスタイルはそういったもの自体を取り込んで作品とする、力強さがあると思ってる。
批判的な視点で指摘を行った人の考えはもちろん分かる。ヘッズとしてのプライド、それは疎まれるものかもしれないが、俺は頑固者が好きだし、バチバチ若い奴とやり合ってなんぼだと思う。結局どっちもヒップホップが好きなのだ。
ヒップホップもそうだし、ロックも、リスナーが好々爺ばかりだったらそれはそれでつまらない。
例に挙げたプロレスも、新日本プロレスは新しいファンが増えるような取り組みが功を奏して、かつての輝きを取り戻しつつある。頑固おやじと新しいファンの対立はまだ相変わらずではあるが。それは昔っからずーっとそうだ。
結局、広くファンを集めること、文化として深めること、そのどちらにも欠点というか失敗例がある。広くファンを集めることに終始した結果、ブームとなって一気に廃れる。深めることに終始しすぎてマニアックになり、縮小して閉じていく。
どちらもあり得ることだ。どちらも、幸せではない。でもどっちも捨ててはいけない。ジレンマだ。
こうやって語っている僕自身も含めてだが、リスナーは古参だろうが新参だろうが、自分勝手だ。それでいいと思う。その結果何が起こるのか、動かすのは演者自身だ。まあそいつが失敗したら思いきり罵ってやればいいんじゃないか。
それが嫌だから、忠告したくなる。おじさんは心配性なのだ。