まだ書きたいことあるので2記事目。
例によってネタバレありなので文字下げ
ーーーーーーーーーーーーーーーー
ヤマタノオロチとゴジラ
ゴジラに血液凝固剤を投与してその行動を封じる矢口プラン、通称「ヤシオリ作戦」。エヴァのヤシマ作戦を思い出すネーミングだ。
ヤシマ作戦は那須与一の伝説にその由来を持つが、「ヤシオリ」も同じように日本の伝説にその由来を持つ。
ヤシオリ=八塩折とは、古事紀において、ヤマタノオロチを倒すためにスサノオノミコトが飲ませた酒の名前だ。酒によったヤマタノオロチは寝てしまい、その隙にスサノオはアメノハバキリでオロチを倒す。
すると尻尾から現れたのが草薙の剣=天叢雲剣だった。というのが大まかな伝説である。
劇中、ゴジラに凝固剤を投与する車両部隊が「アメノハバキリ」というコードネームで呼ばれていたことからも、一連の作戦がこの伝説に即していることはわかりやすい。
そう考えるとラスト、ゴジラの尾の先にあったモニュメントのようなもの。前の記事では人がゴジラの中にいることの象徴として見たが、あれは草薙の剣である、と見るのも妥当だろう。
ヤマタノオロチをはじめとした竜神伝説は、洪水などの災害に由来したものであるとする向きがある。そういった意味で、ゴジラ=ヤマタノオロチとして設定するのはつまり、日本古来からの災害との向き合い方を意味し、描いていたのかもしれない。
地震や台風、水害は過去から現代でも深刻な問題だ。それと日本人はずっと付き合い続けてきた。恐らくこれからもそうだろう。
劇中、ゴジラは凝固剤によって沈黙し、東京のど真ん中に鎮座したままになっている。あれは、恐らく神社になるんだろう。
草薙の剣という、災厄を乗り越えた証拠を御神体とした神殿になる…というのは飛躍しすぎか。そう考えると、在来線爆弾は十拳の剣か?もしかしたらぴったり十両だったりしたのか。
シン・ゴジラとは、核という新たな災厄を乗り越えるという、現代の神話である。とするとさすがに行きすぎかもしれないが、個人的にはしっくりくる。
そうすると、シン・ゴジラの「シン」を「神」と読むことも出来そうだ。もちろん「真」や「進」「sin(罪)」という意味も含まれていそうだが。
特撮であるということ
庵野監督や樋口監督が無理の特撮ファンであることはよく知られている。つまりは、特撮ファンが、自分たちの作りたい特撮を全力で作ったものであるということ、これはもちろん大事なことだ。
このゴジラは引きの絵が多い。ゴジラが蹂躙する東京の街をもの凄く遠くから映している。その様はアメリカのハリケーン被害の映像を思い出させる。
東京の街を問答無用で横切るゴジラ。この絵が何より見せたかったんではないか、そう思えた。ミニチュアを眺めるような視点とでも言えるだろうか。
そう考えると、列車爆弾も、例えばNゲージやプラレールのようなもので遊んだりしているから思いつく発想なのかもしれない。
その他、後から知ったこと
・登場人物の名前の多くが、安野モヨコの漫画のキャラから取られていた。
・マキ博士の写真が岡本喜八監督
会議シーンの多さは岡本喜八監督の影響だったんだな。テロップの多用もそうか。そういや日本の一番長い日とかまだ見てないや。
映画全体
まず会議シーンは確かに長めで、内容があるというよりは雰囲気を見る場面かも知れない。ただ、膠着した空気をゴジラが壊してくれる。
そして、自体が動き出すともう止まらない。人間側も全力で動き回るし、ゴジラも同じく。
バンカーバスターを食らってからの放射レーザーは「うおお!」と思うと同時に、「マジか…」と思うほどの圧倒的破壊をもたらす。ガメラ3で京都が火の海になった時とかもそれを感じたが、絶望感ではこちらの方がすごいかもしれない。
プロレスで言うと、流血試合は確かに燃えるんだが、北斗神取戦まで行くとドン引きしてしまうという感じ。
「いよっ!待ってました!」
てな具合に、単に破壊を楽しむような感覚ではなく、燃え盛る街を見て恐怖感を覚えた。同時に、例えばゴジラに悪役としての憎らしさも感じなかったし、ゴジラと自分を同一視して「ぶっ壊してやるぜえええ!」みたいな黒い快感も無かった。
なんというか、「お前ら何喜んでんの?」ぐらいの、強烈なツッコミを食らった感覚だ。あれがラストだったら、楽しんでいたとはいえズーンと暗い気持ちで劇場を出た気がする。そうならないのは、庵野監督のバランス感覚なんだろうか。エヴァならあれで終わってたんじゃないか。
そして、政治劇は見どころだと思うんだが、それはあくまで「面白い怪獣映画」のための要素でしかないというのも事実だと思う。政治的な要素によって「日本サイコー!」ってなるのも少し違うような。もちろん、比較的ポジティブだからそう思うのも自然と言えばそうだが。
怪獣に右往左往する人間、ってのが怪獣映画の面白さでもあると思う。
そういう意味で、完璧仕事人間たちがゴジラに右往左往してるのはやっぱり面白いと思うし、彼らが彼らなりにやることを最大限やるのはやっぱりカッコよさを覚えるところでもある。
同時に、モンスターに殺される人ってのも確かに映画的には大事で、ジェイソンに殺される金髪ギャルとか大魔神に殺される悪代官とか。あるいはイイ奴が殺されて畜生!となるとか、大切な人が死んで主人公が燃えるところに共感するとか。
ただ、今回の作風でゴジラに殺される人、というのを考えると、それはそれで感動ポルノチックになりかねない危険があったのかなとも思う。ゴジラに対して明確な敵意や恨みを持ったキャラがいないというのも特徴の一つだ。災害としてのゴジラ、と考えると確かに、地震や台風に敵意や仇意識を持たせてもしょうがない。マキ博士に敵意を抱くならわかるけど、そういうのも無かった。
ガメラ3の「私はガメラを許さない」的なノリもあるにはあるが、それはそれ、というのが正直な印象。少なくともこのゴジラはそれを全く目指していなかった。
それでも傷ついた人はいるのだから、それを見せろ!という部分は正直観客に投げてしまったのかな。「こんだけのことが起こったら、誰が傷つくと思いますか?」というような。
会議シーンを「オタク的」って評する声もある。「オタク的」というのは早口で専門用語をまくし立てる様のことだと思うんだが、まあ確かにオタクが憧れてるエリート像が本当にあれだったんじゃないかみたいな。
というか専門的な話をしだすと早口になるし専門用語は都合がいい。別にプレゼンではないので。
それは観客のための措置ではないから、嫌な人がいるのも確かにそうだなと思う。某オタキングは「単なるラップだと思えばいい」ぐらいに言ってて笑った。
あと、専門家とか愛好者が深い話をやたらめったらしてるのを見るのは楽しい。
俺は全然車には興味が無かったのだが、BSでやってる「おぎやはぎの愛車遍歴」は好きみたいな。
ただ、あれが「現実」だ!みたいな話になるとそれは…って感じかな。
静かなシーンと激しいシーンのテンポがどちらもいい。緩急がついているので俺は飽きずに見ることが出来た。
一度絶望感を見せてあるから、ヤシオリ作戦のチマチマした行動とのギャップが凄い。見た目は地味だが、何より総力戦なのだ。関わる人々をモブとしてではなく、有名な役者を使って確実に描いているからこそのシーンでもあるのかな。
ともあれ、俺は娯楽映画として素晴らしい映画だと思う。
子供が見てもわからん、という意見があるが、それは子供をみくびりすぎな気もする。別に全てがいきなりわかるわけはないが、そこに渦巻く感情や迫力は誰にでも伝わるんじゃないかな。むしろ余計なフィルターや知識が無い分大人より敏感にそれを感じ取れるかもしれない。
岡田斗司夫は「今シン・ゴジラを見なきゃいけない理由」みたいな話をしていたが、確かに「今」見るべき映画だろうなというのは改めて思う。