例えばだが、ツイッターでやたら元気で艦これの話題を楽しそうに呟く小池一夫とか、60越えても不良の兄ちゃんみたいなしゃべり方でガンガンギター弾くcharとか、最新のヒット作に嫉妬しまくりの富野監督とか。
彼らは「老いて」はいる。が、とても力強い。
若者おじさん、なんて言葉があるらしい。簡単に言うと「大人になれなかったおじさん」ってことだ。そう書くと、なんか素敵なもののように一瞬は思うんだけれど、実は凄く怖い。
若いというより「幼い」といえばいいのか。
俺は感性が狭くなっていくことを「老いる」ことだと思っていたが、多分違う。それは「弱っている」ということ。そして、「老いる」と「弱る」は必ずしもイコールではない。
かつては「大人になる」というのは共同体の規範どおりに振る舞うという形でよかったのだが、そうじゃなく、個々人がそれぞれに「ちゃんと自分になること」が求められるようになったため、しんどいことになっている。「成熟」のロールモデルがなくなって、目標を自分で見つけなければいけなくなった。
— 伊藤 剛 (@GoITO) 2016年9月13日
「老いる」ことは成熟すること。植物なら勝手に熟れるが、人間はそうもいかない。自分で養分を蓄えて、それを熟成させて形になることが必要になる。で、その過程が上手く機能しなくなっている気配があると。
この若者おじさんってのはいくつか種類があると思う。
まず、そもそも養分を蓄えること、経験を積んだり知識を得たりということを全く経なかったタイプ
そしてもう一つは、経験も知識もあるがそれを熟成させない、アウトプットしたり自分の中で考えを醸成させずただため込むタイプ。
もっと種類はあるだろうが、結局のところ大本の部分が若いというか幼いままなので、「大人」としての行動が求められる部分でギクシャクする。突然ブチ切れたり、拗ねて頑固になったり。思い通りにならないと喚くようになる。
若者の感覚のまま、年齢によって規定された「老い」とのギャップに苦しむんだろうけど、それで他人に迫るから「老害」になる。
うーん…俺もそうなりかけてたというか、半分なってたのかな。
若さというのは瑞々しくて新鮮さに溢れているが、裏を返すと非常に弱く脆い。それを乗り越えて、「大人」になるんだろう。
そう出来なかった人、若さゆえの弱さをそもそも認めなかった、あるいは何かでごまかしてきた人が若者おじさんになるんじゃないかな。
正直、俺もそういうところがあったのでこういう記事を書いてるわけだけれども。年齢的にはギリギリ…かなあ。
その一方で、例えば考えることとか、あるいは感性であるとか、そういったものが「弱って」いくことを「老い」にすり替えてしまうことがあってはいけないと思う。
「俺はもうおじさんだから」ってな。それは「老い」ではなく「衰弱」だ。
多分、どっかで間違えれば「若い」まま「衰弱」していく。成熟たる「大人」が不在になって幼いまま人生を回さなきゃいけなくなる。
だから「強く」なきゃいけないし、ちゃんと「老い」なきゃいけないなと思う。
まあもちろん、一般の人より特殊な経験を積んできた芸能人を目指してもしょうがないんだけれど、それでもやっぱ元気な老人とか、感覚がずっと鋭い人とかいるもんだ。
俺の爺様はもう90になるが、 実家に帰るたびに「新しいパソコンを買ったから教えろ」だの「新しい車が欲しいなあ」とか言い出す。すげえ好奇心と行動力だなーといつも思う。
最終的にはやっぱり自省になるんだけれども。まだ「大人」は世の中にいっぱいいるし、「強い」人もいっぱいいる。そういう人をちゃんと見てかなきゃいけないな。
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