ネットというのは言葉の積み重ねだ。
ブログもそうだし、SNSもそう。
動画や画像中心になっても、言葉というのはネットにおいて最重要な存在であり続ける。
そんな中産まれたのが「ネットミーム」、伝染していく、言い回しみたいなもの。
誰もかれもどこかで拾ったミームを自分の物にして、それを改変したり、あるいはそのまま使ったりしてコミュニケーションを取っている。
ただ、ミームも「言葉」であり「文章」である。
そこには製作者の思想や思考が存在している。
2ちゃんねる発祥のミームには往々にして「茶化す」「嘲笑する」「嫌味を言う」といった思想や思考がその出自から含まれていることが多い。
「淫夢語」ってのはその極みだし、「なんJ語」の基本である似非関西弁ってのもそう。
そのミームを使用し続け、内面化していく過程で、ミームに含まれた思想も内面化してしまう。
そういった現象が起こっているように最近感じる。
2ちゃん出身でなくても、特定ワードに特定ワードで言い返すbotみたいなやり取りにそれは見て取れる。
悪い言葉を使えば悪い人間になる、みたいな話。
それが 最近はエコーチェンバーで語られるような現象を経てより顕著になっている。
誰かの言葉を自分の言葉として表現することで、 歪んだ内面がどんどん強化されていく。
いわゆる炎上が起こった際、いざ直接やり取りするとまるで会話にならない、といったケースが多いのはそういった理由もある。
自分の言葉を持つ、というのは幼少期からの教育で徐々に身に着けていくものだが、ミーム化していくというのはそれを捨て去る行為とも言える。
そんなことを考えてました。
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最近ムキになって続けているバトルロワイアルゲーム、APEX Legends。
行き詰まりが見えてきたなあと思いつつ、プレイとは別のことが気になっている。
このゲーム、宇宙を舞台にしたSFアクションなのだが基本的に地球人ベースの登場人物で構成されている。
そして、その登場人物を演じる声優はキャラクターと一致した出自の人を採用するという取り組みを行っていたりする。(ロボットは除く)
アフリカ系のキャラクターにはアフリカ系の声優が、韓国系のキャラクターには韓国人声優が当てられている。
英語ボイスでプレイすると分かるが、彼らの英語は日本語ネイティブの俺が聞いても分かりやすいぐらい訛っている。
顔を見なくても、ああこの人はアフリカ系だな、とか。
しかし、それを日本語吹き替えにすると全員がフラットな日本語になる。
それとは別に、いわゆる「役割語」が登場人物に与えられる。
役割語というのは、女性ならば「私は○○よ」「○○するわ」、男性なら「俺は○○だぜ」、老人であれば「わしは○○じゃ」といった形でその人物の性格や役割を規定する言葉遣いである。
日本語の特徴の一つでありつつ、一方でステレオタイプを強化してしまうという負の面もある。
そもそも現実で「○○するわ」なんて言葉遣いの女性を見つける方が難しいだろうし、「○○じゃ」なんて爺さんは創作物にしかおらんだろう。
また、吹き替えや字幕において与えられた役割語が果たして英語オリジンと一致しているのか?という問題もある。
これらはアダプテーション(作品の翻案、改作)において避けられないポイント。
もちろん、日本の作品が海外向けに翻訳される際には逆に役割語がオミットされることでニュアンスが変わってしまう、ということも同時に存在している。
ドラゴンボールの悟空が「オッス!オラ悟空!」という挨拶をしただけで、日本語話者の我々はその一人称や語尾から「男性的、フランク、田舎育ち?もしくは古風?」といったニュアンスを感じ取る。
それが「I'm GOKU!」になったらどうなるか、ということ。
Googleの翻訳は便利になってきたが、こういった面の翻訳は難しい、というか不可能に近いんじゃないだろうか。
そんな中で、国境や言語を越えて様々なコンテンツに触れていく我々はどう接していくべきなのでしょうね。
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供給過多と発信の過多は良くない影響を産む、と前に考えたことがあるけれど、言葉自体の使用が過多になることで、個々の言葉を雑に扱うようになっていないだろうか。
競うようにネットニュースにコメントしたり、有名人に返信しなくてもいいじゃん、っていうね。
でも習慣になっちゃってるんだろうな実際のところ。
習慣止めるって大変だもんな。