吐き捨て系日記

もう30になっちゃう男が考えを整理するためにブツクサ綴る、ほんとにただの日記です。

【ネタバレあり版】シン・ウルトラマン(2022)感想

公開からしばらく経ったのでネタバレしながら感想書いていこうと思います。

鑑賞直後のネタバレ無し感想でも書いたが、個人的にはかなり困惑、楽しめなかった作品でした。

楽しめなかった、というのも少し違うかもしれない。
確かにおおっ!っと思うポイントはあったし盛り上がる場面もあった。
でもそれ以上に残念だったりする部分が自分にはあった。


こういうネガティブ成分が多めな感想が歓迎されてないのはよく知ってますが、まあ個人の感想ということで。

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ウルトラマンと人間、社会

ウルトラマンを名作たらしめているのは、単にSF怪獣プロレスの要素だけではない。
そこに人間と社会への鋭い目線が常にあったからこそだと個人的には思う。

初代のジャミラやセブンのノンマルト、帰マンの『怪獣使いと少年』に代表されるような社会批評の側面がシリーズを通して存在していた。

それは昭和に限らず、現代のウルトラマンシリーズにおいてもそう。


そういった意味で、今回のシン・ウルトラマンはそこをごっそり切り取ってあるように感じられた。
言い方を変えれば、「社会」や「人間」というものが極めて希薄だった。


市井の人々の描写はシン・ゴジラとほぼ同じものが用いられていた。
避難する人々、怪獣を身近に感じながらも日常生活を送る人々、嬉々としてスマホで「事件」を撮影する人々、ウルトラマンの正体をゲスに暴露する週刊誌。

前作ではそこに、政府を批判するデモ隊とかもあったかな。


ほぼ同じ描写なのになぜ「社会」が薄く感じられたのか。
それはバックグラウンドとなる我々の社会との接続点の有無。
具体的に言えば、シン・ゴジラ東日本大震災原発事故、という社会的大事件と密接に結びついていたということ。

だからこそ直接的な一般人の人的被害の描写等が薄くとも、我々はそこで描かれる街の破壊描写等から被害者の姿、自分自身の体験への想起が行える。

その効果もあって、終盤の逆転劇に対するカタルシスが産まれる物語上の効果もあった。


シン・ウルトラマンはそこがとても薄かった。
酷い目にあってるのは長澤まさみばかり。

予算の関係なのか、終始科特隊(今回はこの記述で統一しときます)の部屋と現場の行ったり来たりで、一般社会の描写が極めて弱い。

政治描写

そして一般社会のみならず、政治の描写にもそれは言える。


シン・ゴジラでも描かれた「会議ばかりしている」「利害関係によってがんじがらめになっている」政府描写は今作でも同様。

前作でも政府が無能だのなんだの言われてたが、今作はより輪をかけて無能な描かれ方をしている。

二度に渡って外星人とかりそめの不平等条約を結ぼうとし、それをウルトラマンに力づくで妨害された結果、科特隊に圧力をかけるというかなりダメな存在として描かれる。


分かりやすい比較対象として嶋田久作の役柄があげられる。

彼は前作でも政府の人間として描かれていた。
そして、アメリカが一方的にゴジラに対する核攻撃を行う決定をしたことに対して「これは酷すぎます!」と激しく感情を発露する。

今作では総理を演じているが、ひたすら翻弄され「アメリカがさぁ…」って不満を言ってるぐらい。

日本政府としての在り方や、政治家としての矜持も無く、ただただメフィラスの狡猾さを描くための一要素として消費された印象が強い。

前作で大杉連や平泉成の演じる首相が、自分なりの責務を果たそうとしている姿を描いていたからこそ余計にそう感じる。

科特隊描写

そして科特隊自身も。

オリジナルと人数は合わせられており、イデ隊員は滝、フジ隊員は浅見に対応していることがエピソード内の役割からも分かる。

だが、彼らの描写にも疑問符をつけたくなる。


まず長澤まさみ演じる浅見について。

公安調査庁のエリートとして科特隊に配属されたと思ったが、やたら喋りは軽く、なぜか尻をバンバン叩いて気合を入れる描写が何度も挿入される。

ウルトラマン=神永とバディということになるが、お互い単独行動をし続けており、絆を深め合った様子も無い。

パンフレットによると実は恋愛関係になる予定だったようなことが書かれているが、にしたっていつどこで仲良くなったのかはまるで分からない。

何より、今時違和感があるレベルの女性言葉を発し、メフィラスの件でアップされた大量の動画に対するリアクション、それが消えて喜ぶ姿は90年代アニメキャラをそのまま実写にしたような、キャラクターとして突然妙な浮き方をした感覚があった。


リクルートスーツのスカート姿のまま巨大化させられ、足元から舐めるようなアングルで撮影され、尻を画面どアップで何度も叩く姿は公開直後から多くの人に批判されている点でもある。

フジ隊員で性癖が狂っちゃったーみたいなオタク語りは昔からの定番ネタだが、その性的な部分を強調した結果、ストレートに言えば下品になった印象を受ける。


次に、イデ隊員に対応する滝について。

早口で専門用語をまくしてて、やたら余裕ぶっているというキャラ描写は前作の高橋一生とほぼ同じ。

終盤、自身の存在意義に悩み、「どうせウルトラマンが何とかしてくれる」と拗ねる展開はイデ隊員の描写をなぞったものというのは誰が見ても分かる。

だが、そもそも彼は一体何をしたのか?

ウルトラマンにおける科特隊やそれに相当する部隊というと、ウルトラマンが出てくるまでのやられ役という印象があるかもしれない。
しかし実際は、ウルトラマン無しでも何度も怪獣を退治しており、あるいは彼らの行動無しではウルトラマンがやられていたというケースも少なくない。

その中でイデ隊員というのは、様々な新兵器を開発したり、宇宙語で宇宙人と対話を試みたりと積極的に物語に関わってくる存在だ。
そして何より、「故郷は地球」に代表されるような、人間社会に対して時にシビアな目線を自ら向けることのできるシニカルな側面もある。

彼が存在意義に悩み、そこから立ち直る姿というのはそのまま人間社会とウルトラマンの関係性を現している描写の一つとも言える。

残念ながら滝の描写はその域には至っていないように思える。

これ見よがしなSF作品の模型群がやたら画面に映るが、ほんとにSF好きなキャラなのか?と思いたくなった。


早見あかり演じる船縁は何のためにいたのかよく分からない。
やたら多用される顔アップ描写のための要員だったのかと疑いたくなる。


隊長である田村に至っては単なる説明装置でしかない。
電話に出る度「何?○○が××だって?」と一々説明するのはテレ朝の刑事ドラマでも見てる感覚になった。


そして、オリジナルの科特隊から抜け落ちていた存在として「少年」を忘れてはいけない。

なぜか科特隊の基地を自由に出入りし、科特隊の手助けをするうちに制服まで与えられた謎の少年ホシノくん。
当時ウルトラマンを見ていた少年たちが自身を投影出来る存在として欠かせない要素だっただろう。

演者の都合で降板することになったが、物語上無かったことには出来ない存在だろう。

また、メフィラスに地球人代表に仕立て上げられたフジ隊員の弟サトルくん。
メフィラスの脅迫にも屈せず断固として立ち向かうキーパーソンだ。

こういった少年の姿というのは昭和特撮にはつきものなのだが、シン・ゴジラでもシン・ウルトラマンでも子供の描写は極めて少ない。
仮面ライダーにおける少年ライダー隊も、シンでは恐らく存在しないだろう。

何を好きになるのか、ウルトラマン

これら人間の描写が極めて希薄だったが故、ポスター等でも度々用いられる「そんなに人間が好きになったのかウルトラマン」というセリフが出てきた時は「どこを好きになるねん」とツッコみたくなる。

まず俺らが好きになってないよと。

そして、「彼らはまだ幼いから成長を見届けたい」という意図の発言があるのだが、その幼さと希望の象徴たる子供が背景にちらちら写るぐらいで、キャラクターとしては一切出てこない中で、誰に希望を見出すというのか。


言われるがままウルトラマンが提供した技術をやたら長い数式で計算して「ベータカプセル二度押し(!)」というゼットン攻略法を見出した地球人。
結局ウルトラマンありきの解決法で、これからも彼らはウルトラマンありきじゃないとやってけないようにしか見えない。

肝心の協力シーンもPSVRだけって、予算無いにしてももうちょっとあるだろ。


自力でペンシル爆弾を用いてゼットンを撃退した初代、「ダンはダンに代わりない!」と告げるセブン、子供達にウルトラ5つの誓いを授ける帰マン、少年たちに「優しさを失わないでくれ」と告げるエース、人間たちだけでもやってけるぞ!と声高に叫ぶタロウ、少年たちの勇気がブラック指令を倒すレオ、子供達の光が奇跡を起こすティガ、意思を受け継ぎ絆(ネクサス)を紡いでいくネクサス。


ウルトラマンが人間たちにどう影響を与え、彼らはどう変わっていくのか。
それこそがウルトラマンだと俺は思っている。

そういった意味で、シン・ウルトラマンにその要素は個人的に見受けられなかった。


描かれるのは、ウルトラマンがどう変わっていったのか、ということ。
無感情で合理的に動くウルトラマンがいかにして人間の自己犠牲の精神を受け入れていくのか、という。

常にウルトラマンが主役であり続ける話だった。
だからこそ「ウルトラマンが見たい!」という人が絶賛するのも分かる。

花の名前から引用されたであろう「リピア」という名前を持ち、固有個体としての存在になったウルトラマン
ウルトラマン」というキャラクターを描く映画としては高い評価になるのは確かにそうなのかもしれない。

 

ただ「ウルトラマン」という物語のリブートとして見た場合、それは違うのではと思わざるを得なかった。

フェティシズムとしての細かい特撮描写の数々や諸所の引用から「ウルトラマンが好き」というのは画面の端々から嫌というほど感じ取れるからこそ、ウルトラマン以外の要素に対する邪険な扱いが非常に気になった。

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旧劇の際、ネットの書き込みに傷ついたという話は有名だし、シン・エヴァ前後でもかつて所属していたガイナックスとの仲違い、NHKプロフェッショナルに対する「あの番組のせいで遅延が自分のせいだと思われている」という告白、岡田某をはじめとする批評に対する警告等、庵野監督自身かなり「社会」というものに対する嫌悪感が高まっていることもあるのかなあ、と思ったりもした。

まあ何度も書きますが「個人の感想」ですので。