吐き捨て系日記

もう30になっちゃう男が考えを整理するためにブツクサ綴る、ほんとにただの日記です。

龍が如く8、とりあえずのクリア感想

龍が如く8、クリアしました。
さすがに1週間も経ってないので細かいネタバレ等はせず雑感だけ。

ゲーム面

龍が如く7からストレートに進化、ボリュームアップしていた。

特にバトル面、移動が自由になったことで
・敵のバックを取ってバックアタックで大ダメージ
・味方の近くに寄って連携、回復を狙う
・敵の配置に合わせて移動し、多くを巻き込めるように範囲攻撃を行う

などの戦略性が増している。
ただやはり敵のモーションや行動が長く感じる部分があり、戦闘を続けていると少々ダレる部分も。HPがやたら多いのは前作同様。
極技も一部強力なものに偏りがち。
特に炎の矢(名前忘れた)はサムライの初期スキルなのに最終決戦まで有効でずっとこれ使ってた。


新要素のドンドコ島は超ボリュームで何度でもずっと遊べる出来。
さすがにイベントは有限だが、DIYした建物等をどう配置するかはいくらでも遊びようがある。

スジモンバトルは思ったより単純だが、スジモン集めや育成には割と時間がかかるのでこちらもボリュームは満足。


街に関しては、新マップのハワイ。
単純に見た目が新鮮で楽しい。まあやることは神室町や異人町とそんな変わってるわけではないのだが。
相変わらず麻雀やなんかは出来るし。

ただクレイジーデリバリー等のアクティビティもあり、まだ見れてない部分も多そう。
ジャッジシリーズのスケボーに変わるセグウェイ的な乗り物もありがたい。


コラボ面では相変わらず有名人が多く登場するが、中でも驚いたのはアフター6ジャンクションとのコラボ。
両MCがゲーム中に登場するだけでなく、龍が如く世界におけるアト6を制作し、スマホやたまり場のジュークボックスで聞くことが出来る。
これがかなりクオリティが高く、よく知る番組なのに世界観は龍が如くという奇妙な体験が出来る。
これも全10回でかなりボリュームがあるので、2周目ドンドコ島やるときはこれかけながら作業しよう。

これ以外にも細かいパロディが多数盛り込まれており、それらを探すだけでも面白い。

ストーリー面

第1章がいきなり「白日」と、井口理が所属するking gnuの曲名で始まることから分かる通り、章のタイトルは全て曲のタイトルで構成されている。
昭和の名曲からロックから比較的最近のものまで、ストーリー展開とちゃんと合ってる曲名ばかり選んでるのが凄いなと思った。


社会復帰したはずの一番が再び無職に。そして一度死んだことにしたはずの桐生が再び表舞台に。

この一番と桐生のダブル主人公制で進んでいく。
場所はストーリーに合わせて随時移動するが、基本的に一番がハワイ、桐生が日本という形になり、仲間もそれに合わせて固定されていく。

そして新キャラのトミーと千歳。
人気歌手の井口理が演じるトミーは、軽い面もあるがどこか影がある。
千歳はやたら有能だが、その裏に隠された意図を秘めている感じ。

どちらも良いキャラだとは思うのだが、トミーはハワイ在住ということもあり、ナンバや紗栄子のようなレギュラー化が行われるのか微妙なところか。

あとは山井豊。ハワイで活動する謎の極道なのだが、これが思いのほか良いキャラだった。
クセの強い性格だが、一方で行動原理が一貫しており、敵として時には戦友としてとても印象に残る。


で、なぜ7で解散したはずのヤクザが再び動き出したのか、ハワイに眠る謎とは、といった感じで話が進んでいくが、
トータルのストーリーとしては桐生の比重が、特に後半になると多くなっていく。

PVでも明かされている通り、桐生はガンを患っており余命が長くない。
それを踏まえた思い出巡り、エンディングノートの作成が桐生には存在している。
今までのシリーズに登場したキャラクターが再登場したり、各地の思い出ポイントで過去を振り返ったりして桐生というキャラクターの総括を行っていく。
で、エンディングも桐生一馬で終わっていく。

一方春日は、自身の出生のもう一つの謎、母親について迫っていくのだが、ここが案外アッサリというか。
出会うのは割と簡単に出会えるし、そこに隠された秘密がってわけでもない。

むしろ荒川の秘密の方が大事で、ラストを終えて感じるのは「荒川、お前がケジメつけとけや!」という気持ち。


ストーリー展開の中で重要な要素を担う存在として、ネットで人気を博す暴露系Vtuberがいる。
こういったストーリーに登場する、いわゆるネットの民やそれに踊らされる民衆というのは大抵極めて愚かに描かれる。
正直それに対して思うところはあったのだが、実際のところ現実の方が酷いなと思えるような事例が昨今多くて、むしろゲームに登場する人らの方が物わかり良いやんけと感じることすらあった。


最終的には「桐生一馬」という存在が何を目指すのか選び取るわけだが、
その際の声優さんの演技はすさまじかった。

足掛け20年近く続いてきた桐生一馬の集大成、と言えるような凄みのある演技だったと思う。

まとめ

もちろん気になる部分はあるし、ストーリーでここはどうなってんだ?とかはあるんだけど、ゲームとしては満足度がかなり高い作品だったと思う。

前作7では、アクションからRPGへの転換という新鮮さがあったわけだが、今回はそれの正当進化。
と同時に、正式な「桐生一馬の終わり」が描かれた作品でもある。

主人公を交代したが、まだ圧倒的な存在感を放っていた桐生一馬を本当に終わらせる。
そのための作品だった。
8に先んじて発売された外伝と併せて、ここまでやってようやく終わらせられたというべきか。

だからやってる最中に「あれ春日は?」「また主人公桐生?」ってなる場面も多いというか。

そこをどう評価するかは人による部分もあると思うが、ここから先が真の「新しい龍が如く」になるとすれば、個人的には好意的に評価したい。

一億総バラエティ化社会

今年もまた、エイプリルフールで同性愛をネタにした有名人が炎上していた。
去年もやってただろそれ。

その炎上に対する反論もそう。


そんなことやって腫れ物扱いするのが差別だ!
弄りにくくするのはよくない!
別に問題じゃ無いだろ!


同性婚出来ない、って当事者が嘆いてる中で「私達同性婚しました!ウッソ―!そんなこと無いからみんな安心してね!」って有名人がやるのはそらイジリだし悪質でしょ。
仮に異性同士でやっても紛らわしいことこの上ないし、実は嘘で結婚しなかったから安心ってのもおかしな話。


そして、ここがそもそも意味分らんのだけど、なんで社会的に存在を認められることイコール「いじられる」ということになるのか。


前々から感じていたことだけれど、エイプリルフールのタイミングに限らず、今の日本はそこら市井の人々まで笑いに貪欲すぎる。

毎日必死に笑えるネタを探し、見つけたらSNSで披露する。
ギリギリの際どいネタを行える人間は賞賛される。
企業のTwitterアカウントは毎日ボケ倒してRTを稼ごうと必死だ。

動画を取るなら笑いのために出川哲朗かってぐらい身体を張る。
社会問題を語っていく時にもお笑い的なツッコミや定型ネタを組み込まずにはいられない。
ニュースのコメント欄はツッコミと大喜利で溢れている。

そして時折、見誤ってスベる奴が出てくる。
スベった奴は極悪人として社会から糾弾され消えていく。


朝から晩までテレビはお笑い芸人が出ずっぱり。
お笑い芸人がいないと思ったらミュージシャンやアイドル、俳優から果ては学者までがお笑い芸人みたいな立ち振る舞いをして笑いを取ろうとしている。

日本におけるyoutuberってのはインディーズのお笑いみたいなもんで、どんなチャンネルでも過剰なテロップと編集でバラエティ番組化していく。

そこらの飲み会では自分を明石家さんまと勘違いしたオッサンがトークをぶん回して悦に入っている。


もう我々は完全にマヒしてしまっているのだろう。


笑いの無い真面目な話には1分も耐えられない。
つまらないなと感じたら何かツッコミどころを探して笑いを産み出さないと見ていられない。
何も無いなら取りあえずベタなフリをしていつものお約束ネタに持っていこうとする。

どんな人物、現象、作品であれ、それを面白がり、笑いを見出せるやつが最も優れたクリエイターである。
そんでたまにホロっと感動でも加えられたらギャラクシー賞も取れちゃうかも!


それが日本のコンテンツであり、その価値観を我々は完全に内面化している。

社会の全てがバラエティ番組のコーナー、出演者であり、我々はひな壇芸人であり、最終的には番組の司会者を目指す。
そういう状態。


だからLGBTがイジリに文句を言おうもんなら追い出すし、司会者に楯突いた奴は徹底的に追い詰めて再起不能にする。
笑いに乗ってこない奴やイジリを許容しない奴はつまらない人間であり、我々の笑いを邪魔する敵である。
全てがネタであり、笑いが最上位の価値観であり、笑えたなら何事もそれでOK。


それが今の日本。
笑ってられるのは強者と、強者に憧れる弱者。

弱者は強者様のお笑いのネタにしていただくことで何とか立場を与えられるか、社会からはじき出されるか。


誰だって楽しく生きたいし、つまらんより面白い方が良い。
でもその「楽しさ」や「面白さ」はバラエティ番組のそれなのか?
自分で見つけていくことは出来ないのか?


お笑いは好きだけど、じゃあ一日中見てたいか?っていうとそんなことも無い。
ましてや、自分が好きな物、好きな人がお笑いのネタになって笑いのために消費されていくなんてのは腹立たしくもある。

結局、つまらん人間なんでしょうな俺も。
多分それでちょうどいい。

このバラエティ化社会の中で勝者、笑う側にはなれないなと改めて思った。

【ネタバレあり】シン・仮面ライダー(2023)感想

半年近く放置してたけど、久々に映画見たので感想を。

庵野監督のシン・シリーズ最新作。
公開翌日に早速見てきた。

www.youtube.com


正直、シン・ウルトラマンは個人的に賛否の否の方だったのもあって見る前は結構不安だった。
言うまでも無く、庵野監督が凄い「オタク」ってのは分かり切ってる話で、それがどう表現されるのかということ。

ウルトラマンの場合、俺の好きなとこと庵野監督の好きなとこってかなり違うなってのもあり、映画的な良し悪しもあってトータルで否って感じだった。


それが仮面ライダーでも出そうだなあ、という予感は見事的中してしまった。
というわけで今作も個人的には賛否の否で。

世間的にも賛否両論という雰囲気ではありそう。

最初に言っとくと、「庵野監督の方が仮面ライダーを分かってるんだ!お前なんかガー!」みたいな、オタクの愛アピール合戦みたいなのはちょっと正直キツイ。

「全体は○○点だけど、○○があったから一億点!!!」みたいなのも。
昔は真似してやってたこともあったが、これよく無いなと思って辞めた。

ここ数年でそういうノリ自体にかなり冷めてきてしまっている。

まあそんな話は置いといて肝心の映画の話をします。





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”怖くない”ショッカー

特撮ヒーローにおいて「恐怖」ってかなり大事な要素だと思っている。
子供向けで、尚且つ等身大のヒーローであれば尚更そう。


もしかしたら自分も怪人に襲われるかも、こんな怖い目にあってしまうかも。
そんな恐怖から救ってくれるヒーローという構図。
怪人が身近であればあるほど怖く、だからヒーローがカッコいい。

これはシン・ゴジラの頃から雰囲気はあったんだけど、その「敵が怖い」って部分の描かれ方がウルトラマン仮面ライダーと題材が移っていくにつれ顕著に薄くなってきている。

シン・ゴジラが名作だったのはゴジラがちゃんと「怖かった」って部分もかなり大きい。
描写として一般市民の被害描写はかなり薄いものの、東日本大震災という日本人ならほぼ全てが目の当たりにした恐怖体験とリンクさせることで「恐怖」の部分が効果的に強調されていた。
広がる放射能、燃え盛る街、その光景だけで見た人は自分の事として受け取ることが出来る構造になっていた。


今作の場合、ショッカーが市民に対して悪さしてるって描写が極めて薄い。
コウモリオーグに洗脳された人が泡になったとか、ハチオーグに操られた人がゾロゾロ歩いてたりと一応あるにはあるのだが、そもそも普通に生きてる人間が全く出てこないので被害者って感じも全然しない。

ラスボスの一郎も「全人類のプラーナを~」ってデカイ話してる割にやってることはイスに座って虚ろな表情してるだけだし。

さらに、ウルトラマンの時には出てきた国の描写とかもほぼゼロ。
国から派遣された竹之内豊と斎藤工がそれっぽい振る舞いしてるだけで、国がショッカーをどう捉えてるか、どういう被害があるのか、みたいなのが一切無い。

ショッカー怪人の見た目もスタイリッシュなメタルマスクになってるので、見た目の怪奇性も無く、ひたすらライダーバトル見させられてるみたいな印象。

本郷は終始「誰かを守りたい」って言ってるんだが、肝心の守るべき人々が出てきて無いし、守るほどショッカーって怖いか?という。

守りたいのは結局ルリ子だけだじゃん、って見えてしまう。
そのルリ子も一人で怪人に立ち向かって気絶、ってのを何回もやるし(一回目はワザとだけど)。
唐突に出てきたカメレオンカマキリに刺されて死ぬし。
そこでようやっと感情を露にして大泣きするわけで、やっぱルリ子だけじゃん、一般ピーポーどうでもいいじゃん、って見えてしまうよ。


本郷と一郎は通り魔に家族を奪われたという共通した過去があり、そこで運命が二分し、悪に堕ちた一郎と善に生きた本郷、という対比ではある。
ただ最終的に一郎が「悲劇によって歪んでしまった、実は優しい男」みたいな、よくある悪役像に回収されてったのも個人的にはうーん…。

物語が進むにつれ、強大な力を持つ謎の秘密結社ショッカーとの対決、という話が身内家族のトラウマ話というスケールが極端に小さい話になっていったのはかなり残念。
ここにきてまたセカイ系かよ、っていうね。

というわけで、ライダーたちはやたら必死に戦ってはいるが非常に狭い世界の話に見えてしまっているし、一観客としては終始彼らの外側に置かれている気分になってしまった。

見えにくいアクション

アクションシーンのクオリティについても。

まず冒頭のバトルでは血しぶきが飛びまくって「ライダーのパワーすげー」って見せたいのは分かるんだけど、肝心のヒットシーンが高速カットでアップになりまくるので何が起こってるのか把握しにくい。

こういうのハリウッドのアクション映画とかでもたまに見かけますね。


そんで中盤での二号とのバトル。
これ雰囲気は良かった。

等身大の超人が高速で走り、飛びながら戦うってのを実際に描くとこうなるんだぞっていう。
ただその殴り合いが空中で静止しながら両手を前後前後してるだけの、ドラゴンボールもビックリの手抜きだったのが残念。


ショッカーライダーとの戦いはもう最悪。
暗闇で光る眼、ってのを見せたいのは分かるけどあまりに暗すぎ。
その上定期的に、やたら画面いっぱいに爆発が起こるのでチカチカして見てられない。
初代のオマージュとか云々以前に映像として質が悪すぎる。


ラストバトルはもう、何がしたかったのか。
森山未來コンテンポラリーダンス感を強調した0号のアクションはカッコイイと言えばそうなんだが、殺陣がワンパターンだしフラッシュは相変わらずキツイし。

そんで急にパワー使いすぎたとか言い出して、くんずほぐれつのグダグダレスリングが始まる。
その取っ組み合いも目的が不明瞭というか、マスクを外したいなら積極的にマスクを目指せばいいものを、セリフを言わせたいがためにただただ組み付いて離れて、それでひたすら尺が長い。

そんで合間合間に初代のオマージュですよ感全開な、昭和特撮っぽいカットが挿入されるから非常にチグハグな印象。

どっちかにしてくれよ、と思う。

悩む男、本郷

いやいや、ライダーの本質は孤独と苦悩ですよと言い出す人もいるだろう。

人ならざる姿と力を無理やり与えられ、それによって孤独に苦しむ本郷というのは原作から描かれてるテーマであり、仮面ライダーの中心でもある。

じゃあ今作の本郷は?というと変身前から孤独であることが語られる。

父を早くに亡くし、そのせいか「コミュ障」として就職にも失敗する人間であると。


確かに終始声色は低テンションで無機質だ。
しかしその割には積極的にルリ子に話かけまくるし、オーグ退治にも自ら進んで赴いていく。
ツーリングしてソロキャンプするのも好きらしく、バイクは孤独を楽しめるぞ的なことも確か言ってた。
いや、孤独楽しんでるじゃん。

敵を殺して苦悩していますよ、ってカットは定期的に入ってくるがホントに悩んでるようには見えない。
そもそも敵怪人がやたらトリッキーなキャラ付けをされてるせいで同じ作品の人間には見えてこない。

「これがこいつの口癖です!みなさんSNSで真似して大喜利してください!」と言わんばかりの浮きまくったワード連呼。

長澤まさみのサソリに至ってはマジでなんだアレ。
ニチアサの方が遥かにまじめに怪人作ってるぞ。

ショッカーが「人を幸せにするのだ!」という歪んだ目的を持った組織、と語られるもののやってることは一方的に他者を加害、支配するだけなので、わざわざ「幸せ」ってキーワードを付けたす必要があったのか。

本郷君の幸せは他人のために命をかけて戦うことなのだ!父の死を乗り越えて、最後にそれに気づいたのだ!ってことですか。

本郷は「力があれば人を救えた」という、過去のトラウマに由来する行動指針を持っており、それゆえに改造を受けた。
ある種望み通りに力は得たが、それを振るう度に苦悩する。

そして最後、力を振るうことではなく誰かのために命をかけること、それが父親が行ったことであり、自分がやるべきことだったと気付く。
0号にルリ子の遺言を届け、一文字に後を託し、満足そうに消えていく。


でも、命を懸ける行為そのものと「幸せ」を繋げるのはかなり危険だと思うけどなあ。
彼は幸せだったのです、っていう終わりでいいのかそれ。

こうして最後の最後に本郷は、ルリ子の言う「覚悟」を持って誰かのために戦う本物のヒーローになったのです!というまとめ方なのかな。

にしては話の作りから描き方から回りくどすぎるよ。

悩まない男、一文字

そんな本郷に対して、2号ライダーの一文字は行動原理がかなり明快で分かりやすい。

分かりやすいというのは、そのまんま口に出してるせいでもあるが。

「俺は好きかどうかで物事を決める」
「つるむのは好きじゃない。だから一人でショッカーと戦う」
「誰かとつるむのも好きになるようにするぜ!」

非常に分かりやすい。

戦闘中も軽口を叩きつつ、最後はしっかり(頭突きを)決めてくれた。


戦闘シーンの出来もあってキャラとしてはかなり人気らしい。
本郷からマスクを受け継ぎ、ライダーとして生きていくことを決め、新しいサイクロン号で去っていく。

キャラクターとしてケチ付けるとこが無いっすね。
本郷が何考えてるか、何をしたいかイマイチ分かりにくいってのもあって余計にそう思う。

そんなに人間が嫌いか、庵野

庵野監督作品に共通している、一般人の少なさ。
そして登場人物たちへの過剰とも言えるキャラ付け。
全てを口に出して説明するが、肝心なとこは何も言わない演出。


庵野監督の特撮好きは有名だが、それを踏まえてこれら作品の傾向を考えると、特撮に出てくる子供達や一般人を邪魔だと思ってたんだろうなあ、っていう感想になってくる。


ウルトラマンと怪獣さえ見れればいい、ライダーと怪人さえ見れればいい。
「キャラクター」が見れればよくて、それらが生きる「社会」はどうでもいい。

そんな極端な愛し方なんだろうなっていう。


そんな偏愛を感じ取りつつ「分かる!分かるよ庵野!」って誰よりも監督に感情移入するタイプの観客なら楽しめるんじゃないかな。


女性に恥ずかしいセリフを言わせたり、ヘンテコな行動をとらせたがったり、おじさんが若ぶったような妙なセリフ回しだったり、それを庵野節として愛好する人もいるんだろう。
ただ個人的にはもうそういうのがキツくなってきた。

いつまでチョケてんだよ、というイライラの方が強くなってきてしまった。

まとめ

俺にはもう庵野作品は合わないとハッキリわかった。
そんな一本でした。

【PS4】Disco Elysium -the Final cut クリア感想

家で寝てるだけなのに疲れるようになっちゃったよ。

 

 

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2019年に公開されたゲームのCS移植版です。

なんとなく新しいゲームを探していた中、パッと見たPVの雰囲気にやられて調べもせず購入。

タイトルは「クリア感想」となっていますが、何をもって「クリア」とするのかが難しいゲームではあるので、「何度かエンディングに到達した」という意味合いです。

以下概要と感想。

概観

記憶を失った主人公を操作し、寂れた港町で巻き起こった殺人事件に迫っていくアドベンチャータイプのRPG
独特のルックと、かなり細部まで作り込まれた世界観、そしてなんといっても圧倒的な文章の量。

「人を選ぶ」というのはまさにこのこと。

とっつきにくく、紹介も難しい。でもドハマりしてしまう唯一無二な魅力にあふれたゲームだった。

「余計なもの」を楽しむゲーム

まず最初に基礎ステータスの設定が行われる。

頭脳や身体能力などに数値を割り振る。
そしてその下にある各スキル、頭脳であれば知識量をつかさどる「百科事典」、身体能力であれば手先の器用さをつかさどる「手さばき」などに数値を更にセット。

こうしてキャラメイクを行い、物語に入っていく。


これらのスキルは物語の各所で影響を与えてくる。

「手さばき」が高ければ地図をこっそり本屋でくすねることも出来る。
「腕力(に準ずるスキル)」が高ければ無理やりカギのかかったドアを開けることが出来る。
「暗示」が高ければ、口先で相手を操ることが出来る。


これら、どのスキルをどのように使うかによって物語は大きく変化していく。
この際にTRPGのようなダイスを使った成否判定が行われる。なので、能力が低くてもダイス次第で突破出来てしまうのだが、これは少しゲーム的に気になるポイントだった。


そして、これらのスキルは主人公の「人格」でもある、というのが最大の特徴。
ひたすら文章を読んでいくゲームなのだが、その合間合間でこれらのスキルが脳内で好き勝手喋りだす。

相手の言葉を聞いて「百科事典」が知識を披露し、「腕力」が力ずくでの解決を提示し、酒とドラッグに溺れることを求める人格が大騒ぎを始める。

これらの脳内会話は攻略に関係あるものもあるが、その多くはぶっちゃけ余談も余談である。

このゲームの魅力はこの「余計」な部分に詰まっている。


物語は寂れた港町で展開され、ホテル周辺、港工場、旧市場、この3エリアでほぼ完結する。
しかし、その背景には複数の国家とその政治状況が複雑に絡み合っており、それらの断片は登場人物の会話から少しずつ語られる。

ハッキリ「共産主義」というワードも出てくるが、基本的に架空の国家での話であるが故、全体像を把握するのはかなり困難だ。

で、その世界観がゲームに必要か?と言われるとこれもぶっちゃけそんなに関係無い。


選択肢も多数存在し、主人公がどのような人物なのかを他者に示す場面が現れる。
資本主義者なのか共産主義者なのか、フェミニストなのか男性至上主義者なのか、ヤク中なのか真面目な刑事なのか。

じゃあそれを示したことで何が変わるのか、というとそんなに変わらない。


膨大な文章の大半が、事件とは関係が無い。
これが最大の特徴だと思う。


この文章を楽しめるかどうか、これに尽きる。
「いいから早く真相を教えろよ」みたいな人には全くもって向いていない。

和訳独特の、若干分かりにくい日本語の渦に飲まれ、垣間見える社会の姿を想像し、主人公の背景を少しずつ感じ、演じる。


自分の脳内と「トーク」しながら進める「RPG」、それがDisco Elysiumだった。


主題となる事件、そのものの真相やトリックのようなものは別段複雑では無い。
大事なのはそこに関わった人々が何を感じ、何を考えているのか、それを会話の中から読み解くことだろう。

単なる「事実」だけを追うことにこのゲームは重点を置いていない。
街のNPC一人一人の人生、思想、思考。それらを追うことがこのゲームの主題だ。

気になるポイント

まず単純にフリーズやバグ落ちがまだ頻繁にあるという点。

オートセーブ機能もあるが、頻度があまり高くないため、こまめに手動セーブをしておかないと数時間の操作がパーみたいなこともあるので注意。


前段でも述べたが、スキルの成否判定の部分。
スキルが高ければ成功確率は上がるものの、100%にはならない。逆に低くても0%にはならない。

事前にセーブしてリセット&ロードを繰り返せばどんな能力値でも突破出来てしまう。
これは若干気になるポイントだった。

失敗は失敗として進めればいいのだが、じゃあ何のために事前に能力値を設定したのかという気になってしまう。

また、時間経過は「新しい文章を読む」ことで行われる。
一通り回って今日はもうすることが無いのに、新しい文章が見つけられずにあっちこっち走り回る、みたいな不毛な時間が発生しやすいのはちょっとストレスだった。

感想

買って損なし。

一気に何周もしたくなる一方、その後は少し時間を置きたくなる。
またやりたくなる中毒的な魅力があるゲームだった。

こういったゲームがPCインディーから出てきてCSに現れるという現象は自分のようなライトユーザーにとってはとても有難いこと。

steamで片っ端からやるぜ!みたいな資金力も英語力も無いもんで。

「ストレンジャー・シングス」シーズン4 にヘヴィメタルの神髄を見た

Netflix発、今や世界で最も注目されているドラマの一つであるストレンジャーシングス。
そのシーズン4が日本時間の7月1日、満を持して公開された

 

自分はどちらかというと後追い勢。
シーズン1の評判を聞き、シーズン2辺りから一気に見てドはまりした。


その80年代ディテールや選曲、キャラクターの魅力ってのは方々で散々語られているのでここでは余り触れない。
やはり我田引水、自分の得意分野でこのコンテンツについて触れていきたいと思う。


というわけでこのタイトルです。
以下、ネタバレはしていくのでまだ見ていないという方はご注意を。

エディ・マンソンという男

このシーズン4からの新キャラにして重要キャラの一人、エディ・マンソン。


新しい学校に進んだマイクとダスティンにとって、初めて自分達の趣味を理解してくれた頼れる兄貴分のような存在。

ヘヴィメタルを愛聴し、スクールカーストの頂点であるバスケ部の面々にも臆さず挑発を繰り返し、友人たちと夜通しTRPGを嗜み、裏ではドラッグを売りさばく危ない一面もある男。

彼がチアガールであるクリッシ―と交流を持ち、そのクリッシーが事件に巻き込まれたことで事態は大きく動き出す。
殺人事件の犯人と誤認され、警察やクリッシーの彼氏であるバスケ部キャプテンに付け狙われつつ、裏側の世界の存在を知り、マイクたちに協力していく。

これがシーズン4における彼の概要だ。


全体で言えばストレンジャーシングスは、ホッパーやジョイスなどの大人、ナンシーとジョナサンとスティーブのような年長組、そしてマイクたちの年少組という構成でそれぞれが自身の悩みと向き合いながら事件解決へ挑む形になっている。


エディはそんな中で年長組なわけだが、ここで年長組のキャラクターを振り返っておきたい。

知識と行動力で事件解決への糸口を見つけ、ここ一番で凄まじい度胸を見せるナンシー、
イケイケの嫌な奴からダスティンの友人となり、恋のアドバイスまでするようになる面倒見のいいスティーブ、
弟のため、そして愛するナンシーのために献身的な行動を見せるジョナサン、
ティーブと共に恋に悩みつつ、ムードメーカーとして明るい雰囲気をもたらすロビン


そんな彼らと比べてエディはどうだろうか。
普段はかなり周囲に対して挑発的で、仲間にも少し高圧的な面がある。
事件以降は警察や裏側の存在におびえ、怯えながら隠れている姿が印象的だ。

一方で、悪夢に悩むクリッシーがドラッグを求めてきた際の会話から垣間見える優しさ、他人思いな面が印象的だ。

エディが行方不明になった後、彼と暮らしていた父親のコメントからもエディの人柄が伺える。
ただ、事件に対してはまだ知らないことも多く、ひたすら振り回されている姿が目立つ。
これは最初の頃のジョナサンやスティーブに近い。

ここまでがシーズン4 Vol.1までのエディである。
そしてVol.2、彼が彼たる所以がここで描かれる。

メタルマスター

事件の黒幕の存在が分かり、彼を倒すために一行は裏側の世界へ再突入し、立ち向かうことになる。

現実世界で彼をおびき出すチーム、裏側でおとりとなって見張りを引き付けるチーム、実際に黒幕へ攻撃を加えるチームの3つに分かれることになり、エディはダスティンと共におとりチームに配属される。


裏側の世界を徘徊する凶悪なコウモリのような怪物、それらを引き付けるため、エディは得意なギターを大音量でかき鳴らす。
曲はメタリカのMaster of Puppets(邦題:メタルマスター)。

open.spotify.com


シーズン4の舞台は1986年、1985年リリースのこの曲はまさに最先端のメタルヒッツなわけだ。
操り人形の支配者に翻弄される姿を歌った歌詞は、麻薬とその中毒者の比喩であるというのは有名な話だが、ストレンジャーシングスの物語においては「裏側の世界から恐怖で支配する黒幕」と「その被害者」という構図に置き換えることも出来る。

実際、この曲が流れるシーンは黒幕から逃げ惑うが逃げられないマックス、という形になっている。


そしてこの後おとりとしての役目を終えるも、エディは裏側の世界に残り仲間のためにさらに時間を稼ぐことにする。

そして、ゴミ箱の盾と粗末な槍で怪物たちに立ち向かい、その命を散らす。

駆けつけたダスティンに、「お前は変わるなよ」と言い残して。

ヘヴィメタルとは何か

俺はこのエディ・マンソンというキャラクターの描かれ方に、「ヘヴィメタル」という音楽の本質が現れているように思えて仕方がなかった

それは何か?

どんな時でもカッコイイことか?

どこかダサい一面があることか?

悪魔に立ち向かう力強さか?

誤解を恐れずに言えば、メタルとは「虚勢」であると思う。


エディは周囲の人物を威嚇し、挑発し、周りから浮いているように見える。
しかしその実、クリッシーのことやマイク、ダスティンら仲間を思う心優しさがある。
そして警察やバスケ部から逃げ惑う際に垣間見える臆病さ、弱さがある。

そんな自身の優しさ、弱さを隠すために彼は長髪メタルファッションに身を包み、露悪的な振る舞いをしながら、爆音でヘヴィメタルを聞く。


ヘヴィ・メタルはまだガンには効かないが、そのうち効くようになる」

 

ドキュメンタリー映画「Heavy Metal In The Country」のワンシーンでの発言。
ネタミームとして今でも画像引用されることが多いこのセリフも、そこに繋がる。

 

誰もヘヴィメタルがマジでガンを治すなんて思っちゃいない。
でも、ヘヴィメタルがあったらガンに立ち向かえる…かもしれない。

そういうことだ。

「メタルを聞くと救われる。人生が嫌になって孤独で空しい気分の時、苦しみや怒りを誰かと分かち合えるからなんだ」

こちらは映画「デビルズメタル」からの引用。

 

こちらも同じ。

人生の辛さ、苦しさへの向き合い方を少し歪んだ形で見せてくれるのがメタルなのだ。


バカバカしいほどに大仰な歌詞、世界観。
音質とか知らねーよってほどの爆音、轟音。
アホみたいな速弾きや高速ドラム、難解な曲展開。
分かりやすいぐらいのマッチョイズム、時に露悪が行き過ぎて時に一線を越えてしまう危うさ。

これらは全て辛さ、苦しさ、悲しさ、弱さの裏返し。
そうやって立ち向かう術を、虚勢を張り続けることをヘヴィメタルは、メタラーは選んだ。

ある種逃避であったメタル、しかしエディは裏側の世界でクリッシーのために、仲間のためにメタルを奏でる。
だからあのギターは人を感動させる。


そしてエディは最後の最後、自分の身を犠牲にしてまで怪物たちに立ち向かった。
なぜか?彼はヘヴィメタルだからだ。


自己犠牲精神というものに対する批判もあるだろう。

ただ恐らく(こっからは妄想です)、

エディ自身も自分を犠牲にしてまでおとりを続けることに意味があるのか、本当にそれで物事が良い方向に向かうのか、確信はなかっただろう。

それでも、「英雄はいらない」と自分で言っておきながら、自身に大した力が無いと分かっていながら、強気に立ち向かう姿を見せずにはいられなかった。
それが彼の生き方であり、ヘヴィメタルだからだ。


事件の後、そんなエディの本当の姿を知る人は街にはおらず。
事件の犯人であると誤認されたまま、凶悪な男として街の人々の記憶には残る。

ダスティンをはじめとする仲間たち、そして父親を除いては。


それがヘヴィメタル
五月蠅い、邪悪、露悪、そう言われて蔑まれることをあえて自分から選ぶ。
自分から自虐的にメタルを「ダサい」って貶すやつもいる。


メタルを聞いて英雄になれるなんて思って無いし、音楽好きの中で何か褒められたり一目置かれることも無い。
ラップやポップスのように現代社会の代弁者として評価されることも中々無い。


でも、それでも、メタルは今後も愛され聞かれ続けていくと思う。
弱さを抱えた人々にとっての精一杯の強がり、虚勢として。

それを笑う人もいると思う。
蔑む人もいると思う。

正しいやり方だとは思わないし、時に明らかな過ちを犯すこともある。

でも、「それがなんだ!」と最後まで戦い続けることは辞めないで欲しい。
そんなヘヴィメタルが俺は大好きです。