流行と懐古の狭間で
俺はもう30手前、いわゆるアラサーというやつだ。
若者、というにはギリギリだし、かといっておじさんというには若いという、中途半端な年齢。
そんな時に感じるのが、流行ってやつとの距離感。
音楽に関しては、もう流行には乗れてないといっていいだろう。ベビメタがって話は前散々書いたし、邦ロックのフェス系やらチルやらの潮流も魅力的だとは思いつつもこう、ハマるという感じではない。
洋楽はもっと顕著かもしれない。Drakeだテイラーだアヴィチーだ。正直全然わかんねえ。もう根本的にルーツミュージック色が強い音楽を聴くセンスがねえんじゃねえかと絶望しそうになる。
映画は新作で面白いと思えるものはあるものの、どちらかといえばそれもマッドマックスやらシン・ゴジラやら。完全無垢な新作というわけではない。
流行はしてんだろうけど、多分乗れてない。
アニメや漫画に至っては何が流行ってんのかすら怪しい。
新作、ってやつは見るし面白いと思うんだけど、潮流ってやつはもうわからない。
どっかでズレたんだなあと。
別にいいじゃん流行なんて!と言いたくなる気持ちもある。まあ別にみんなで楽しまなきゃ!みたいなのは糞食らえだと思ってるのでそれは別にいいんだが。
俺にとって大事なのは「流行」というよりその中に内包された「新しさ」だということ。
流行しているものが必ずしも新しいとは限らない。最先端すぎて誰もついてけないってこともあるから。
でも流行しているものの多くは何かしらの新しさがある。過去の焼き増しだとしても、過去に流行らなくて今流行るということは何か違いがある。
要は、その新しさがわからなくなりつつあるということ。
そしてその状態のまま俺が生きていくということは「停止」でしかない。
俺は「停止」することが本当に怖い。
すでに規定された過去だけでしか作品を見たり、語れなくなるのが怖い。懐古でしか自分を語れなくなるのが怖い。
未知の未来で新しい作品を見たいし、「語り」を得たいと思う。
そうなんだよな。結局色んな作品を見るのは、それ自体の楽しみと、もしかしたらそれ以上に自分を語りたいという欲求があるからなんだろう。
この作品は面白かった。→俺はそれでこう思った→俺はこういうものだ。
そういう意味で、新たに語る言葉を得ないという選択をした時点で俺はもう何も言うことが無くなる。
例えば生活の中で家庭を持ち、子供が出来たら否応なく父親として、家族としての未来はあるのかもしれない。でも、「俺」はどこに行っちゃうんだろうなと。
俺の親父はいまだに王長嶋の文句をいい、いかにビートルズが凄いかを語り、バブルがクソか教えてくれる。
親父はそこで「停まった」のだ。野球はまだ見続けているが、そこに新しさはない。
過去の停止点からの距離感でしか語れないし語らない。
父は父で、俺の成長と共に老けていく。しかし一人の男の感性は80年代で停止したままだ。
親父を腐すわけじゃないが、俺はそれが嫌だ。
新しいものが常に良いものとは思わない。が、新しいものから離れ切った距離感で語るのは愚の骨頂だ。
懐古もいい。再評価もいい。でもふと振り返るとすでに「新しさ」は遥か向こうへ過ぎ去っている。
過去の停止点から語ったとしても、それは単に自分に都合のよい踏み台というか、自身の停止点を飾り立てるための要素でしかない。そういうものに新しいものを押し込めてしまう。
過去の作品を鑑賞することは大事だ。現代、という位置から見れば新鮮さすら感じることもある。ただ、その新鮮さはあくまで後ろを向いた新鮮さだ。
それを受けたうえで先へ進まなければならない。
「ここでいい」になった時点でもう何も語れなくなる。
新しいことが正しい、そういうことじゃない。ただ、そこには新しいからこそ存在する面白さや、体験がある。
自分に合わない新しさって、苦痛でしかないんだが、それでも俺は新しさに向かっていたいなと思う。いや向かわなきゃいけなかったなと。
過去、俺が得た感動や興奮は事実だし、いい思い出だ。それを未来へ連れてかなきゃいけない。全部は無理だろうから、ポロポロ零れ落ちてくんだろうけれども。
そして、過去のものに後ろ足で砂かけるような真似はよくない。お墓と一緒できちんと整備しておくべきだ。もしかしたら、また帰ってくるかもしれねえと。
そんなこんなで手に残ったものが一生ものだったということだろう。今は何が残るか分かんねえけど、パンテラは落ちる気配が無い。
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……何が言いたい記事なんだろうか……。
まあ簡単に言うと、新しいもんにもガンガン触れないとクソつまらねえ懐古オヤジになっちまうなと思った次第です。感性に良し悪しがあるとは思わないが、俺は固定しておきたくないなと思うわけで。
幸いゲームは、まだ最先端に割とついていけている。ポケモンGOはやってねえけど。
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