今年もまた、エイプリルフールで同性愛をネタにした有名人が炎上していた。
去年もやってただろそれ。
その炎上に対する反論もそう。
そんなことやって腫れ物扱いするのが差別だ!
弄りにくくするのはよくない!
別に問題じゃ無いだろ!
同性婚出来ない、って当事者が嘆いてる中で「私達同性婚しました!ウッソ―!そんなこと無いからみんな安心してね!」って有名人がやるのはそらイジリだし悪質でしょ。
仮に異性同士でやっても紛らわしいことこの上ないし、実は嘘で結婚しなかったから安心ってのもおかしな話。
そして、ここがそもそも意味分らんのだけど、なんで社会的に存在を認められることイコール「いじられる」ということになるのか。
前々から感じていたことだけれど、エイプリルフールのタイミングに限らず、今の日本はそこら市井の人々まで笑いに貪欲すぎる。
毎日必死に笑えるネタを探し、見つけたらSNSで披露する。
ギリギリの際どいネタを行える人間は賞賛される。
企業のTwitterアカウントは毎日ボケ倒してRTを稼ごうと必死だ。
動画を取るなら笑いのために出川哲朗かってぐらい身体を張る。
社会問題を語っていく時にもお笑い的なツッコミや定型ネタを組み込まずにはいられない。
ニュースのコメント欄はツッコミと大喜利で溢れている。
そして時折、見誤ってスベる奴が出てくる。
スベった奴は極悪人として社会から糾弾され消えていく。
朝から晩までテレビはお笑い芸人が出ずっぱり。
お笑い芸人がいないと思ったらミュージシャンやアイドル、俳優から果ては学者までがお笑い芸人みたいな立ち振る舞いをして笑いを取ろうとしている。
日本におけるyoutuberってのはインディーズのお笑いみたいなもんで、どんなチャンネルでも過剰なテロップと編集でバラエティ番組化していく。
そこらの飲み会では自分を明石家さんまと勘違いしたオッサンがトークをぶん回して悦に入っている。
もう我々は完全にマヒしてしまっているのだろう。
笑いの無い真面目な話には1分も耐えられない。
つまらないなと感じたら何かツッコミどころを探して笑いを産み出さないと見ていられない。
何も無いなら取りあえずベタなフリをしていつものお約束ネタに持っていこうとする。
どんな人物、現象、作品であれ、それを面白がり、笑いを見出せるやつが最も優れたクリエイターである。
そんでたまにホロっと感動でも加えられたらギャラクシー賞も取れちゃうかも!
それが日本のコンテンツであり、その価値観を我々は完全に内面化している。
社会の全てがバラエティ番組のコーナー、出演者であり、我々はひな壇芸人であり、最終的には番組の司会者を目指す。
そういう状態。
だからLGBTがイジリに文句を言おうもんなら追い出すし、司会者に楯突いた奴は徹底的に追い詰めて再起不能にする。
笑いに乗ってこない奴やイジリを許容しない奴はつまらない人間であり、我々の笑いを邪魔する敵である。
全てがネタであり、笑いが最上位の価値観であり、笑えたなら何事もそれでOK。
それが今の日本。
笑ってられるのは強者と、強者に憧れる弱者。
弱者は強者様のお笑いのネタにしていただくことで何とか立場を与えられるか、社会からはじき出されるか。
誰だって楽しく生きたいし、つまらんより面白い方が良い。
でもその「楽しさ」や「面白さ」はバラエティ番組のそれなのか?
自分で見つけていくことは出来ないのか?
お笑いは好きだけど、じゃあ一日中見てたいか?っていうとそんなことも無い。
ましてや、自分が好きな物、好きな人がお笑いのネタになって笑いのために消費されていくなんてのは腹立たしくもある。
結局、つまらん人間なんでしょうな俺も。
多分それでちょうどいい。
このバラエティ化社会の中で勝者、笑う側にはなれないなと改めて思った。