Twitterを見ることもめっきり減った。
たまーにまとめていくつかのアカウントを辿るぐらい。
タイムラインに張り付いてウォッチしたり、呟くことなんかもしなくなった。
そりゃためになる呟きや考えさせられる意見を目にすることが無いわけじゃない。
ただ、それ以上に嫌なものを目にすることが増えた。
拡散されるために作られたであろう真偽不明な呟き
意見交換じゃなくて単なる罵詈雑言
一見真っ当なように見えて、知ってる人が見たら根本から間違ってる素っ頓狂な評論
悪意をもって改ざん、編集され感情を煽り建てようとする呟き
とりあえず嫌味言いたいだけのクソリプ
善意のフリをしたお節介
「信じたいものを信じたいのだ!」というだけの宣言
これらがビューを集め、拡散され、多くの人の目に触れる。
「これおかしいよ」「間違ってるよ」と丁寧に訂正しようとする人もいる。
でも、そんなもんは全く広がらない。
デマや誤情報が数万RTされた後正しい意見がどんなに有名人から発せられても、たかだか数百RT。
結局身内でグルグル回って外側には届かない。
間違った情報に触れて「へー、そうなんだ」と思ってしまった人たちには届かない。
記憶の奥底に沈んだ後、また違う話題に飛びついている。
そして、ふとしたきっかけで「そういえば○○って…」と誤情報が記憶として蘇ってくる。
単なる誤情報ではなくその人の記憶、知識として。
こうなるともう、正すことも難しい。
正しい文献、ソースを提示されたとしても自分の記憶や知識を疑うこと、誤っていたと認めることは相当根気がいる。
クソリプやお節介に対して「そういうのは良くない」とモラルを説いたって意味がない。
それ自体が目的なのだから、いくら言われたって直す理由が無い。
そもそもそんなもんを、単にネットですれ違ったもの同士でどうにかしようって方が無理なのだ。
誰も責任を取らないし、当事者だけがただ苦しむ。
そんな光景が当たり前になっているけれど、こんな状況が終わることもまた想像がつかない。
災害時のライフラインになること、個人の情報発信源としての価値、エンタメの場としての楽しさ。
それもまた事実。
一度解き放たれた道を閉鎖することは出来ない。
表現、思想、発信、それらは基本的に自由だ。
検閲は忌むべきものであることは大前提。
と同時に、自由には責任が伴う。
責任を伴わない自由は弱肉強食以上のカオスでしかない。
そんな中で、「強者」として振る舞うのはさぞ楽しいと思う。
「正義」と言ってもいい。
デジタルの世界では「数」が正義だ。web業界にいるからよく分かる。
見られたもの勝ち、広まったもんの勝ち。
どんだけ動員できるか、それが大事。
集まったことが結果であり、目的。
話題になったから改善されました、ってのもあるよもちろん。
でも正直それは「たまたま上手くいった」ってだけだと思う。
だから多分流れは止まらないし、終わらない。
良くなることもない。
たまに上手く行くことがあるから。
ただ、その上手く行った例を喜ぶ以上に失望することの方がはるかに多い。
だからまあ、俺が出来ることって自分がTwitter辞めることだけなんだよな。
とはいえ、ブログも数がもの言ってくる世界ではあるんだけどな。
嫌になるねえ。
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何が嫌って、自分で書いたこの記事にクソリプがつくとしたらどういうのが来るか、予想出来ちゃうぐらいにはマインドの中に組み込まれてんだよな。
「あなたが気に入らない意見が多いからってデマ扱いですか!」
「お前が何時でも正しいとでも思ってんの?」
「そうやってマウンティングするからでしょ」
見える見える。