このブログ、書き出してからしばらく経つ。
その中で主にアクセスされていた記事テーマは2つ。
「BABYMETAL」と「シン・ゴジラ」について書いた記事。そらどちらも、今流行ってるもんなのでアクセスがあるのは当然というか、検索に引っかかりやすいわけで。
で、その二つについて改めて考えると、実は似た性質を持っていたものなのかもしれないということ。
少し箇条書きにしてみる。まあこじつけっぽいところもあるのだが。
1.口コミベースで拡大する人気
ベビメタはyoutubeで海外のメタルファンにも認知度を広げ、フェスを中心としたライブで客を獲得した。
シン・ゴジラもSNSでの絶賛の嵐が新たな客を呼び、それを見た人がまた呟くといった連鎖で興行収入を伸ばしている。
2.「外部」からやってきた存在
シン・ゴジラの総監督はご存知庵野秀明。実写作品も撮ってはいるが、ベースはアニメにあるクリエイターだ。
ベビメタもまた、その出自はアイドルである。
それぞれ、「外部」にそのルーツを持っている。
3.やっていることは正攻法である。
どちらも一見、色物的に見られるのだがやっていることは実は正攻法だ。
現代日本にゴジラを描く、それをただ忠実にやり遂げたシン・ゴジラ。
メタル×アイドルというコンセプトを徹底したベビメタ。
実は直球勝負だったりするように思える。
4.「絶賛」が拡大する。
シン・ゴジラに関してもベビメタに関しても、絶賛が目立つ。そこから絶賛どころか神格化に向かう人も少なくない。それらが集って熱狂を呼んでいる。
作品の中身云々ではなく、それらを取り巻く状況に似通ったものが感じられる。で、それに対する俺の立場を改めて明らかにする。
シン・ゴジラ→劇場で見て、大満足。二度目も見た。
ベビメタ→デビューから知っているが、どうにも合わない。
こんな感じ。
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最近、シンゴジラにまつわる感想の中に気になるものがあった。そこから、世間の「絶賛」に対する向き合い方を考えたい。
とある漫画家が、シンゴジラを見た。その感想を漫画にしたのだが、その内容に怒った人々が反論、漫画家は謝罪し漫画を削除した。
内容はボカすが、概ねこんな感じ。
「面白かったけれど、これ絶賛してるやつは普段ろくなもの見てないんじゃないか?」
まあ、そら怒る人もいるだろう。これに対し「批判も許されないのか!カルト信者!」みたいにキレる人もいるんだけど、ちょっと待ってほしい。
この感想の問題点は、批判や批評が「作品」ではなく、「作品を見ている人」に向いているということ。楽しんでる人たちに向けて石を投げているのだ。それで怒る人が出てくんのもまあ分かる。
ただ、絶賛側にも同じような存在はいる。「今までのクソみたいな映画に比べて余計なものが無いから最高!」みたいな感想はチラホラ見受けられる。これも、「今までの映画」という、外側に向けて石を投げている。
あるいは「これはバカには分からない」的なの。これもおんなじ。
これはゴジラの例だが、ベビメタにも実は似たような反応はある。
楽しんでるやつを差して「ロリコン!ステマ!メタルの冒涜!」と騒ぐやつ。
楽しめないやつに「頭の固いメタラー!時代遅れ!」と貶す奴。
前の記事でも何度か書いたし、俺もそうだった経験から言えるのだが結局、
「作品の外側にばかり目が行って、話題が作品自体から離れていく」
現象が起こる。流行っているもの、絶賛されるものには特に起こりやすい。
俺がベビメタに対してなんやかんや騒いでいたのは、そういうところもあっただろう。どんだけ売れたとか、雑誌がどうとか誰に絶賛されたとか。
そういうものに対して圧を感じていた。
まあ検索すればわかるが、実際情報量はとんでもなく多い。ベビメタ海外の反応まとめ、みたいなブログは山ほどあるし。
ただ、それは結局人が多い少ない、量が多い少ない、それに対する反応でしかない。
もちろん、自分が好きなものに人が多ければ嬉しい。逆は悲しい。
でもそこに文句を言う、ってことは結局他人をコントロールしようとしている。そういう意図があってやっているならいいのだが、恐らくその自覚が無い人は多い。
先の漫画家も無自覚に書いていたと思う。
そのままでいるとどうなるか。「批判するとすぐ噛みついてくるやつがいて気持ち悪い」という認識になる。
そして相手を「信者」「オタク」「踊らされるバカ」「見る目のない一般人」
あるいは逆の立場で「頭の悪いアンチ」「ただの天邪鬼」「逆張り野郎」「楽しめないオタク」と単純化する。そうして断絶しておしまいだ。
だから、絶賛されているものに相対するときは気を付けなければならない。
作品を見ているか、周りの反応を他所に置けるか、自分の感想は何に対する感想なのか、自分の意見はどこに矛先が向いているのか。
そして自分の意見を表明してどうしたいのか。
無自覚な攻撃から喧嘩になる。嫌味を言っていることにお互い気づいていない。
不幸なのは、それに巻き込まれた作品なんだろう。
結局、SNSやらなんやらで一個人の興奮は積み重なり、勢いは強くなる。
そうした勢いをメディアがスルーするはずもないし、情報量はドンドン多くなる。
もし、作品に乗れなかったとしたらその量は文字通り圧力に感じられてしまうだろう。
「絶賛しか許さない空気」みたいな。実際はそんなもん無いと思うんだけれど。
絶賛の圧力に対抗しようとして、上述したような「作品から離れた批判」を生み出したり、「作品を見ている人」を批判したりする。
それは逆の圧力を産んでいるだけな気もする。「自分にとって好ましい空気を作るための圧力」をかけている。
結局「楽しかった」体験をいくら突っついても無駄なのだ。「何でお前ら楽しんでんだよ!」という攻撃は意味が無いというか、悪手になりかねない。
「あんたたちの食ってるもんはゴミだ。明日もう一度ここに来てください。最高の○○をご用意しますよ」っていう山岡メソッドで成立すんのは美味しんぼだけだし。
「こんなもんを楽しんでるやつら馬鹿じゃね?」と水をぶっかけて誰か幸せになるんか?って話になってくる。
「正しく良い作品が売れてほしい!」ってのも分かるんだけどさ。俺もそう思うし。
逆に、「外側」しかない絶賛てのも山ほどあるわけだ。「いくら売れた」「評論家絶賛」とか、それだけのもの。
ただそれも文字通り「拡散」しただけなので、まあぶっちゃけ気にすんなよとしか言えない。
肥大化した「当事者意識」と「被害者意識」が歪んだ「絶賛」と「批判」を生み出し、作品の外側で無用の対立を生み、それが作品に帰ってくる。
更に言うと、結局否定したいという行動の裏には「自分自身の正しさ」を求める姿がある。俺が必死こいてベビメタを否定してたのも多分そういうとこ。
要するに作品を「選ばなかった」、作品の良さを「感じなかった」を「正しいこと」にしたいんだろう。
他の記事でも書いたけれども、結局評価の「正しい」「正しくない」という論旨は作品鑑賞において直接関係があるのかっていう。
「こういう作品に対してこの絶賛は正しくない」っていう批判は「評価に対する批判」であって作品の評価と分けられなければならない。
映画評論とかそういう論壇では大事だが、それは単なる鑑賞とは別の話。
悲しいことに作品として「正しい」ことを自分の「正しさ」とすり替えてしまうような人もいる。
ちょっと前の俺とか。
論理的な正しさと感情は別なんだ。結局のところ。論理的な正しさを感情で上塗りしても無理がでるし、その逆も然り独立して存在させなければならない。
つまりは
「これはこういった理由から、良いものだと思われる。でも俺は好きじゃないかな。」
これに尽きる。後はいかに歩み寄れるかということだろうな。
絶賛側も批判側もさ。
すげえ面白かった!けど人に押しつけがましく薦めてないか?
あんまり合わなかった。けど、楽しんでる人に嫌味を飛ばしてないか?
正しくない作品だけど面白い!だからって正しさをないがしろにしていいのか?
面白いが、正しくない。だから作品の価値は無いということにしていいのか?
ただ何だかんだ言って俺も前はそういうことやっちゃってたし、今も無自覚にやってそうなんで気づき次第治していくしかねえんだよな。
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