シン・ゴジラの話(ネタバレあり)
最初に言うと、物凄く楽しかったし、「ゴジラ」だったと思う。いろんな要素があるので、一つ一つ列挙していく。
ネタバレありなのでいったん文字下げ
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テロップ
最初に目が行くのが、これでもかというぐらい乱発されるテロップだ。地名や人物名、会議の名前、兵器の名前まであらゆるものにテロップがついて名前を教えてくる。
トップをねらえ!やエヴァでもテロップはよく出てくる。が、今作では異常ともいえる量がぶち込まれている。
単なるフェティシズム、オタク的な知識自慢、ととらえる見方もあるだろう。ただ、それで終わらせるのはちょっともったいないというか、作品全体の雰囲気からして違う気もする。
個人的に思ったのは「すべてのものに名前がある」ことを示したかったのではないかということ。ゴジラ映画に出てくる戦車や戦闘機は、言ってみればやられ役だ。
しかし、それらには列記とした名前があり乗っている人がいる。庵野監督世代のオタクは、そういったものに愛情を注ぐような存在だ。そして、後述するテーマにも関わってくるが、つまらない会議、意味のなさそうな会議一つ一つにも名前があり、関わる人がいる。
そういったことをテロップが示していたのではないだろうか。
ゴジラ
海底トンネルの事故、それに対して単なる海底火山の噴火であると決めつけようとする政府をあざ笑うかのように「ゴジラ」は現れる。
が、それは予告編で登場した、我々がよく知るゴジラでは無かった。深海魚のような得体の知れない、考えの分からない恐怖感を煽る表情の怪物。
それが徐々にゴジラへと変化していく。
単一でひたすら進化を繰り返した超越的完全生物としてゴジラは描かれる。人知を超えた存在だ。
旧ゴジラは核の恐怖の象徴として描かれた。戦後すぐに作られたゴジラにはそういう意味がある。
現代の我々は核や放射能の恐怖は嫌というほど知っているはずだった。しかし3.11、そこで日本人はよくわかっているはずの原発の恐怖に怯えた。デマが飛び交い、二転三転する情報。
シン・ゴジラも確かに核の恐怖の象徴だろう。それは、人知を越え進化する、コントロールが効かない存在として描かれている。しかし同時に、その遺伝子や放射性物質には未知の、人類にとって有用性のあるものが存在している。
そしてラスト、主人公である矢口が発するセリフ
「我々はゴジラと共存していかなければならない」
ゴジラは脅威だ。だが、排除は出来ない。これからも共に生きていかざるを得ない。
つまり、現代における核・原子力との対峙。それがシン・ゴジラだったのではないか。
ラストはゴジラの尻尾のアップで終わる。そこには、人間のようなものが解けて固まった、まるで彫刻のようなものが見て取れる。
ゴジラの中には人間がいる、いや、人間の積み重ねがゴジラ、そういう風にも見て取れるかもしれない
政府・自衛隊
いちいち会議をしなければ決められない。二転三転する指令、一人では何も決められない。日本の政府は様々な映画でそう描かれる。今作でもそのような側面はある。
専門家の意見に「そうなのか?」といちいち驚く大杉蓮演ずる首相。いちいち「想定外だ」と言って右往左往する高官。
単なる無能として見ることも出来なくはない。しかし、何かやらなければいけないのは同じく彼らなのだ。彼らが動かなければ何も動かない。自衛隊は火器を使えないし、市民も逃げられない。
ゴジラへの攻撃直前、逃げ遅れた人が発見される。そこで防衛大臣は攻撃を進言するが、首相は断固として攻撃を認めない。これはまぎれもなく首相の決断だ。誰に言われたわけでもない。
終盤、アメリカの熱核攻撃のタイムリミットが迫る中、血液凝固作戦は行われた。そしてその裏で、成り行きで就任した臨時首相がフランスに対しひたすら頭を下げ、タイムリミットを引き延ばしていたことが明かされる。
彼らは決して有能ではないかもしれない、しかし動かなければいけない存在だ。間違いなく動いていた。
ゴジラの生態を調査するために集められた、不愛想な高官、気難しそうな科学者、皮肉屋な役人。彼らも、例えばマッドサイエンティスト的に「ゴジラを研究したいだけ」とか「こんな楽しい仕事ないぜえ!」とか描かれても不思議ではない。しかし彼らもまた、昼夜問わずひたすら仕事に没頭し続ける。衝突も無い。黙々と熱心に仕事に取り組み続けた。
シン・ゴジラで描かれているのはそういうテーマもあるのでは?と感じた。
「動かなければならない人間がしっかり動く」
この映画に対する批評の中に、「末端の人間や被害者、登場人物の家族描写が無い」という指摘があった。確かにその通りだ。
実はこれもテーマに合わせた意味があったのではないだろうか。例えば近年公開されたハリウッド版ゴジラでは、親子の確執、引き裂かれる家族、といったテーマが同時に描かれた。
シン・ゴジラではそれが徹底的に省かれている。つまりは「家族愛」「友情」そういうものによる感動を求めていない。そしてそれをゴジラに対抗する力として描いていない。
愛の力などではない。役人が走り回って、末端の兵士がそれを実行する。それでしか解決できない。現実とはそういうものだ。
もしくは、死んだ人や苦しむ人を映すことで生まれる感情みたいなものがゴジラに向かうのは避けようとしたのか。憎い対象とか仇という形に収めたくなかったのか。ナディアやエヴァを見ればわかるが、残酷な描写をしようとすれば出来る監督だ。
単に時間とかの問題もあるかもしれない。
だからといって末端の兵士がどうでもいいとか市民がどうでもいいとか、そういうことではない。政治的駆け引きや思惑があろうとも、少なくとも劇中の政治家は市民のために動いていた。それは間違いないんじゃないか。
旧作へのオマージュ
劇中で初めて登場したゴジラの第一形態。何やら既視感がある。何かはわからないが、どっかで見たような気がする。これは分かったら追記する。
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思い出した。マジンガーZの映画に出てきたギルギルガンにちょっと似てるんだ。
最初はトカゲっぽい見た目なのに、鉄を食ってどんどん成長する驚異の敵。
なんか似てるな。こじつけっぽいけど。
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そして会議シーンで突如流れるエヴァのBGM。正直噴き出した。
自衛隊の一大作戦「ヤシオリ作戦」で流れる宇宙大戦争のマーチ。この辺はさすが庵野監督といったところか。
他にもいろいろありそうだが、それは再度見て気づいたときに。
笑い
ギャグらしきシーンは随所にあり、クスッとはした。が、一番笑ったのは何といっても終盤のヤシオリ作戦での衝撃的シーン
無人在来線爆弾
これはやられた。ゴジラシリーズにはメーサー車やスーパーXをはじめ、数々の超兵器が出てきたが、正直これほどぶっ飛んだ兵器は無いだろう。
まずN700系新幹線が並走し、ゴジラの足元に突っ込む無人新幹線爆弾。ここでまずぶったまげるのだが、続いて登場したのがこれだ。
山手線や京浜東北線などの在来線が並走、ゴジラに突っ込んで大爆発。飛び交う車両。あのシーンだけ何度でも見たい。
馬鹿馬鹿しいシーンかもしれないが、実は現実的、と見ることも出来るがそれ以上に面白すぎる。
そして、石原さとみ演ずる高飛車な米国高官…の後ろに佇むマフィア梶田(ゲームライター)。美味しすぎるだろうその位置。
元AKBの前田敦子が冒頭のシーンで一秒映っただけなのに、こいつは緊迫感のある場面で異様な存在感を放っている。立ってるだけで面白いってすごいな。
総括
恐らく批判も少なくない映画だろう。日本の法整備、日米関係にも触れている。役者の演技も正直ムラがあるといえばそうだ。
しかし、日本ロボットアニメと怪獣映画のオマージュに溢れたパシフィックリムや、ハリウッドの大型資本でストレートに描き切ったギャレス版ゴジラ、そういった本来日本が作るべきであろう映画を海外に持っていかれていた事に対する溜飲を下げるだけの完成度がこの映画にはあったと思う。
正直見る前には不安もあったが、個人的には「よくここまでやってくれた!」と言いたくなる一本だった。