俺が今一番気にしてること。
情報を入れ過ぎない
情報を発信し過ぎない
それがこの二点。
『情報化社会では情報の取捨選択が大事』ってのは俺が中学生の頃から言われていたことだ。
実際、ネットのニュースなんて片っ端から見てたらキリが無いし、そこにぶら下がるユーザーのコメントまで網羅するなんて不可能だ。
テレビ番組だって朝から晩までやってて、それが更にネットでいくらでも見直せる。
また、ネットサービスは場所によって意見の偏りがあるし、Twitterのタイムラインなんてそれこそ自分で作り上げるもの。
一次情報だけでもメディアごとに差異があるのに、それが二次三次と各種ネットメディアを通過すれば形なんてまるっきり変わってしまう。
そしてそんなもんが毎日大量に降ってくる。
ハッキリ言って、個人で処理し続けるのには無理がある。
情報の供給過多だ。
同時に、発信する場所が山ほどあるわけだ。
ブログ、Twitter等SNS、5ch等のBBS、ヤフーニュース等のコメント欄
別に頼まれたわけでも無いのに、みんな何かコメントを残そうとする。
そんな状況が続くとどうなるか。
情報は雑に処理されていく。
世の中の事を『知らん知らん』とスルーするか、『要は○○だろ?』『結局××ってことでしょ?』って次々切捨てていくか、あるいはレッテル貼りを行って党派争いに回収するか。
入ってきた情報を自分の中で整理、処理、思考する間も無く発信に移ってしまう。
有名人の訃報が入ってきたら、この人はどんな人なのか?どんな活動をしていたのか?を調べる前に「誰?」と書き込む。
それでこのニュースは終わり!ハイ次!
酷い時は、全く情報が入ってないのに発信だけやたら多い奴もいる。
政治のことなんも知らんけど政治に物申しまくりたいとか、音楽全く聞いてないけど昨今の音楽に文句は言いたいとか。
これが延々繰り返される。
ニュースもそう、エンタメに対する感想もそう。
ふと振り返れば、物凄いスピードで雑に処理された発信だけが山のように積みあがっている。
情報の発信過多。
最近、この二つが本当に良くないと個人的に思っている。
入ってきた情報を簡単に処理して吐き出す、この過程でどんどん「思考」が失われていく。
ツーと言えばカー、そんな反射神経ばかり育って、自分の中に「自己」が無くなっていく。
自分の中に何もないのに発信だけは行おうとする、結果全く空虚なコピペ定型文をもって自分の意見としてしまう。
そのうち、感情もコピーしてくるようになる。
誰かの怒り、誰かの不安、誰かの諦め。
賛同とは違う、借り物の感情。
ホント、ニュースのコメント欄とか人が書いてるように思えないんだよね。
単に意見が同じ、ってんじゃなくて書き方や思考回路まで同じなんじゃねえかってぐらい定型化されたもんがズラーっと並んでたりする。
ほとんどコピペじゃねーかって感じ。
もちろん、凄い考えさせられるような、思慮に富んだものだって無いわけじゃない。
まあそれでもネットらしいっちゃらしいのかな…
なんて思ってたら、学生時代の友人がFacebookでそういうコピペマシーン状態になった時にはさすがに怖っ!と思った
人となりを知ってるから余計怖かった。
お前の思考どこに行っちゃったんだよって。
ぶっちゃけネットの顔も知らん連中ならまだいいんだよ正直。
これが身近な人だった時のショックったらない。
意見も誰かの借り物になり、思考が誰かの借り物になり、そのうち感情も誰かの借り物になり。
お前誰?ってなりそうでさ。